日本人会の歴史
ポーランド 日本人会の沿革
2006年2月21日
「光陰矢のごとし」という陳腐な表現が真っ先にうかんだ。
ポーランドにおける日本人会がホームページを作成することになり、日本人会の歴史を書けという要請を受けたときのことである。こうした言葉は「十年一昔」とかいう表現と同様、筆者のポーランド滞在の時間を考えるとき、日本人会の活動は避けては通れない私の生活活動の一つであった。無知で無謀だが、若さだけが取柄という20年代前半の私がポーランドへ研究生として留学したのは1966年のことであった。
縁があって当地の娘と恋をし、家庭を築いて二人の息子もでき、ふと気がついたら日本での生活時間より長い、39年という年月が過ぎていた。
こうした時間の中で約30年におよぶ日本人会の存在は、それが親睦団体とは言へ、私にとってはけっして軽いものではない。
前置きが長くなったが、日本人会には設立当初からタッチしており、事務局、役員、副会長と、日本人会への直接のかかわりだけをみても10数年にわたっていたので、あれこれ想い浮かぶ事々をアトランダムに記してみたい。
1)日本人会設立の趣意
多くの人は日本人会というのはポーランドという地縁のもとに、在留邦人が設立した仲良しクラブ的な親睦団体と思っているかもしれない。現在の活動だけを見ればそう考えても不思議ではないが、設立当初ではもっとさしせまった大きな問題があったのである。それは在留邦人子弟の教育という問題であった。
ポーランドの1970年代は、時の政権担当者であったギェレック第一書記の時代であった。
この時代、西欧世界では景気後退で金融機関に資金がだぶついていたが、ギェレック政権は低利でいくらでも貸してくれる西欧諸国から資金を導入して、ポーランド産業の近代化政策をはかり、GDP成長率が毎年9%という高度成長政策の高揚期にあった。
1960年代末から70年代当初、商社の駐在事務所はまだ開設されてなく、企業人たちは長期出張の名目でホテル住まいをしながら商売に専念していたが、近代化政策が進んでくると、当時、十大商社といわれていた企業は事務所を開設し、駐在員の数も急速に増えていった。企業の駐在員や日本大使館スタッフの数も増えるにつれ、家族同伴者たちは子弟の教育問題に頭を悩ますようになった。アメリカンスクールも結構だが、帰国後の子女の教育を考えるとき、なんとかポーランドで日本と同等の教育を受けられないかということが焦眉となったのである。
詳細は知らないが、日本政府の海外子女教育上での政策では日本語補習校や日本人学校への教師派遣援助のためには、それを受ける人々の積極的なアプローチが要請されているようだ。つまり、援助や補助を受ける側―子女の親たち―は受け皿となる組織を作って援助を申請せよというわけなのである。ポーランド日本人会の設立趣意は1970年代に急速に増えた駐在員家族子女の教育のために設立されたのであり、親睦活動はそれに付随したものであったことを知るべきである。
2)親睦活動
ワルシャワ日本人学校の設立母体としての日本人会誕生の経緯は前項に記したとおりだが、
在留邦人たちの親睦活動は設立当初から活発であった。日本人会ができて活動方針を話し合ったとき、当然のように会報をだそうということになった。
婦人部会(確か、そうした部会があった)を編集局として月報「ヴィスワ」の発行が決められた。この時代、ワープロやPCが使用できるわけではなく、またコピーも検閲局の許可が必要という時代であったので、原稿はすべて手書きで、コピーは会員会社の好意という、まさに手作り会報であったが、内容はオペラのダイジェスト、便利生活情報、エッセー等々、それなりの内容を盛り込んだ会報が発刊された。
会員が随時、会合できる集会場が必要だとのことで、一時期、部屋を借りたこともあったが、費用の問題で1年足らずのうちにクラブ室を閉鎖したこともあった。
こうした集会室は現在では、日本人学校の体育館施設や、大使館多目的ホールが使用できることを考えると、やはり隔世の感がある。
忘年会は設立当初からの最大イベントであった。
日本食はなくとも年に一回、多数の在留邦人が一堂に会しての会合は、旧交を温め、新来の邦人たちと知り合う機会でもあった。
「寅さん」の映画に涙をながし、数ヶ月遅れの紅白歌合戦のフィルムに多数の邦人が息を飲んで見つけていたのも忘れられない光景である。
大使の好意で麻雀大会(女性も多数、参加された)を公邸でおこなったこともしばしばあったが、こうした映画鑑賞やお遊びは時代を反映するものであり、現在の観点からは考えられないような活動風景だったといえよう。
3)永住者・長期滞在者の増大
日本人会の会員はかつて、数年間滞在の民間企業の駐在員(とその家族)や大使館スタッフ、留学生が圧倒的であり、筆者のような永住者や長期滞在者の数は十数名前後だった。
1989年以前の旧体制時代には、結婚、留学、あるいは企業や大使館など、滞在の明確な理由がなければ、共産主義という国是のもとに風来坊が気ままに住める国柄ではなかった。
こうした時代、日本人会は短期滞在の在留邦人主体の活動が主であり、永住者たちは地縁だけのつながりで日本人会活動に参加しているにすぎなかったといったら言いすぎだろうか。1989年の体制変革以降、こうした状況がかわり当地に住み着く邦人たちも徐々に増え、
現在ではその会員数も民間企業派遣の駐在員とその家族にちかい数字になってきたのは喜ぶべきといえよう。今後は短期、長期・永住滞在にかかわらず、ポーランドの地縁のもとに相互に知恵を出し合って日本人会運営にたずさわってゆけば、面白い企画もでてくるようになり、より豊かな在留邦人社会につながるのではなかろうか。
松本照男(ジャーナリスト)